文楽『心中天の網島』
現し世のすべてと訣れ道行きを共に行きます君の羨しも
(うつしよのすべてとわかれみちゆきをともにゆきます君のともしも)
-同人誌掲載-
行ってきました、文楽『心中天網島』。大阪錦秋公演最終日です。
ガラガラで当日券は楽勝楽勝、と勝手に決め込んで、
家族旅行が中止になったので、23日の最終日の第2部を目当てに
出かけたのでした。
ところが、文楽劇場の中に入ると多数のひとがウロウロ、丁度、
第1部が終了したからだろうな、と暢気に窓口で友の会カードを出したら
『はい、これが最後の席ですヨ』と言われ、仰天してしまいました。
さすが錦秋文楽の最終日、ここ2年近くは色んなことがあって、
文楽へ出かけることがパッタリ止まっていたので、全く以って予想外、
こちらの感覚が止まってしまっていたのでした。
だから、最後の一枚と聞いてビックリしたと同時に、ああ良かった!と
安堵の吐息が出てしまいました。
けれど流石錦秋文楽の千秋楽、演し物も近松の世話物最高傑作とも
言われる『心中天の網島』、まして大人気の人間国宝住太夫や蓑助が演じる
舞台なので、会期中もきっと賑わっていたのだと思います(いえ、思いたいですネ)。
さて、第1幕は『北新地河庄の段』、大阪北新地の茶屋『河庄(かわしょう)』が
舞台の“切”を住太夫が語り始めると、
人形を操る師匠たちの素晴らしさと相俟って、もうすでに私の目は
うるうるとなり始めました。
19歳の薄幸の遊女小春、その恋の深さとそれゆえの絶望。
28歳のそろそろ分別も出てきておかしくない筈なのに愛欲の淵に溺れて、
身動きの取れない(身勝手な!)男の紙屋治兵衛。
その情けなくて出来の悪い弟が可愛くて仕方がない、男気あふれる
兄の孫右衛門。その三者がまさにそこに生きて、悩んで嘆いているように
見えるのです。そして、
人間の生身の肉体でないがゆえに、それぞれの登場人物のかかえる悩みや
問題が、より切実に純化されて胸に迫ってきました。
そして第2幕、場所は治兵衛が営む天満の紙屋の店舗兼居宅の紙を商う店
『紙治(かみじ)』の、店が見通せる部屋。
そこで治兵衛は、昼間から布団の中でうたた寝をしています。
うたた寝をしながら、先にキッパリ思い切った筈の遊女小春を思って
未練と後悔、そんな自分の情けなさへの自責の念もあってシクシク泣いています。
今回は、私(たち)の大好きな<蓑助さん>は小春を遣われました。
最後の段『道行き名残りの橋づくし』で大変美しい綺麗な道行きを
演じられたのですが、個人的感想としては、<蓑助さん>には
治兵衛の女房『おさん』を演じて欲しかったな、というのが正直な感想です。
以前に、その配役で大感激したことがあった記憶があるのです。
おさんは、実は、夫の治兵衛が入れあげている遊女小春へ、
治兵衛が大切と思うならば、どうぞ家庭へ返して欲しいと、
真心溢れる手紙を書き、その思いに応えて治兵衛を思い切ろうと
小春は決心して治兵衛と別れたのです。
第1幕では、その治兵衛の所業に心を痛めて何とかを諌めようと、
治兵衛の兄孫右衛門は、小春に直談判にきて、たかが遊女のこと、
別れるように説得できると思っていたのが、偶々おさんが書いた手紙を
見つけ、その手紙によっておさんへ義理立てをした小春の心の真実を
知ることになったのです。
その小春の健気さに引き比べ、治兵衛は、未練たらたらで、
小春の心変わりをなじり、殴る蹴るをし、小春をなお深い悲しみに
突き落としたのでしたが、そんなある日、治兵衛とおさんは、偶然、
小春の近況を耳にし、おさんは自分との約束を思い合わせ、
『小春さんは死ぬつもり』だと直感するのです。
一人の男を挟んで、立場の違いを超えて女性二人の情(こころ)が、
通い合うことになってしまいました。
そして相手を思いやればやるほど自分の思いを殺さなければならない、
そのジレンマを越えて、相手を救わなければ!と決心したとき、
容赦ない現実が、二人の女性の思いを引き裂いてしまうのでした。
第3幕はいよいよなす術がなくなった治兵衛と小春が心中の決心をし、
決行に向けて踏み出す、お茶屋が舞台の『大和屋の段』。
最後にすれ違う、治兵衛とその兄孫右衛門の兄弟愛も涙を誘う場面です。
第4幕の『道行き橋づくし』は中堅若手の太夫連がずらり並んでの舞台。
人形も、勘十郎の治兵衛と蓑助の小春、哀れで美しい心中場面です。
わけても小春の衣装は黒。そこに帯揚げと“しごき”の赤が鮮烈です。
19歳の小春の若々しさと美しさがいやが上にも輝きます。
今では想像も出来ないほど『家』や『身分』やその他のしがらみの多い
社会とその制度のなかで、弱い生身の人間が引き受けざるを得ない運命、
それは過酷に様々の人間関係を極限まで連れていったのでしょう。
小春が『おさん様ひとりの蔑しみ恨み妬みもさぞと…』と嘆き、
『この世でこそは添はずとも今度の今度のずつと今度のその先まで夫婦』
と願う哀れさは、その義太夫の詞の巧みさと大勢の太夫と三味線によって、
心の芯まで沁みてゆきました。
最後に、小春がおさんの心を思いやって『せめて二人の死顔を並べず
死にたい』とのぞみ、治兵衛はその意を汲んで、小春を刺し、
自分はその背後の樋に小春の紅の“しごき”を掛けて自ら縊れ死んだのです。
その時の紅の“しごき”の鮮やかなこと!しばらくは瞼裏に残って、
席を立つ事ができませんでした。
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