三諸者(三輪山は)
三諸者 人之守山 本邊者 馬酔木花開 末邊方 椿花開
浦妙 山曾 泣児守山
三諸は人の守る山、麓邊は、馬酔木花開き、末べは、椿花さく。
うら美し山ぞ、泣く児守る山。
みもろはひとのもるやま、もとべは、あしびはなさき、すえべは、
つばきはなさく。うらぐわしやまぞ、なくこもるやま。
萬葉集 第十三巻
久々のブログです。前回はと言えば、何と1月18日で止まっていました。
パソコンの突然のダウン。古くて、保障期間はとうに過ぎているし、
新規購入すべきか修理すべきか、迷っているうちに日は経つばかり、
結局TOSHIBAへ問い合わせて修理の結論がでるまでまたまた逡巡。
家族の助けもあって、ようやく修理ができてきました。
さあ、使えるぞ!となると今度は課題が友人との読書会で出てきてしまい、
これがまた重たい、中々立ち上がらないパソコンのように、フリーズ
しそうになって、とうとう1週間が過ぎました。
でも、この1週間で我家の『軒端の梅』は綻びはじめから“頻りに散る”
ところまでになってしまいました。
今年の花付きは殊のほかよかったせいか、毎日メジロがやってきて、
愛らしい姿を眺める幸福も味わうことができ、とても幸せなことでした。
さて、上記の歌は三輪山を褒めた歌で、この三諸山=三輪山は美しい山だよ、
(神のために)人がお守りしている美しい山だよ。ほら、麓には馬酔木の花が
咲き乱れ、頂きの辺りにはあの鮮やかな紅い椿が満開だ。
何という美しい山だろう。泣きやまない幼い子供でさえ、この山に向えば
泣き止むというよ、との意。
そこで、【浦妙=うらぐわし=うら美し】について、テキストである
<萬葉集名歌選釈>には丁寧な解説が書かれているのですが、そこに、
大変惹かれる文章があるので、ぜひ引用して紹介したいと思います。
・・・「うらぐわし=うら美し」の「うら」は心のこと、うら悲し、
うら戀し、と同じことばのつかひ方である。心の眞底からしみじみ思はれる
やうな感情を現はす言葉である。・・・とあり、そして次に、少々唐突かと
思われるように強く下記を続けてあるのです。
・・・うはべだけの感情表現を避けた古の人たちは、まことの感情のさらに
深いところに、感情の奥ゆきは無限にあることを知り、さうした歌をつく
ってゐる。かういう點で、萬葉集のうたには佛説の影響はない。・・・
上記の3行は、なかなか意味深長であると思うのですが、如何でしょうか?
『説明・理屈・言い訳』は歌を作るときに避けなければいけない、と度々
先生方から教えられてきているのですが、そのことを言葉を替えて述べられて
いるような気がします。
萬葉集に納められている歌々が作られたころ、わが国には仏教はまだ入って
きていないか、或いはあったとしても、信仰というより新しい学問のような
ものだったのではないでしょうか。
それ以前の日本人(といっても何処からを起点にとるのかはわかりませんが)
の心のあり方とはどうだったのか、その答えの一つがここに述べられている、
そんな気がします。それが、当たっているのか的外れなのかはわかりませんが、
<まことの感情のさらに深いところに、感情の奥ゆきは無限にあることを知り>
と言われると何となくそう思われるのです。
【歌は神への捧げもの】と言われたりもしますが、それに加えて、
<自然>と書いて<かんながら>つまり<神ながら>と読むということを
重ねて思うと、自らの生の中で、自己の運命に向き合わねばならないとき、
自然に向うように、そのあるがままを受け入れ、そこに心と感性を由らせて、
祈るがごとく言葉を発することしかないのではないか、と自分なりに考えて
みたのです。
ある方から、萬葉集の最後に歌われている歌の解釈について、大変難しい
問いかけを頂き、私などが何をどんな風にお答えしてよいものやら、随分
悩んだのです。 けれど、この歌の解釈がこのように示されていることもあり、
思い切ってお答えするとすれば、やはり、『いやしけよごと』は『彌重吉事』
でよいのではないかということになるでしょうか。
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